安保法案成立。さあ、ゲームに戻ろう。

安保法案が成立した。
衆議院に続き、参議院ともに、
与党による強行採決というブサイクなかたちで。

第二次安倍政権になってから始まった
特定秘密保護法をめぐる動きに対して、
若者を中心としたデモが何度も起きるようになり、
その流れは安保法案に反対する大きな動きになった。

私はそれらのデモに積極的に参加してきのだが、
周りのいわゆる「ソーシャル系」と言われる人たちの
中には、そうした反対の声を上げることとは
距離を置く人たちも少なからずいた。

反対反対と叫ぶ以外の方法があるはずだ、とか。
そもそも今の政治の仕組みがもう古いんじゃないか、とか。
もちろん、そのどちらも正しい。
立場を越えた対話にもとづき、民意をよりスピーディに、
的確に届けるしくみは必要だ。

でも、それどころじゃないと思った。
いま目の前に、対話やしくみづくりの大きな妨げに
なるかもしれない、息苦しい社会への入口が
迫っているのだから。

これまでと違うかたちを模索する動きと同時に、
緊急対応として、いま迫っている狂った流れを
食い止めないといけない。
そんな思いで、デモに参加してきた。

そんな中、
安保法案はその審議の過程で
実質的には改憲ともいえる内容を含んでいたり、
そもそもこの国を守るどころか危険にさらすということが
どんどん明らかになっていった。
それにつれ、デモに参加する人もどんどん増えていった。
しかし、あえなく法案成立。

遅すぎたのだ。山が動くのが。
ここに至るまでに、何度も選挙があった。
デモなんか起こさずとも、止めるチャンスはあった。

しかし、政治、特に民主主義には遅いも早いもない。
国民一人ひとりが主権者として政治のしくみを理解し、
考え、行動することで、政治は動いていくのだ。

ここ数年、自分なりに政治のことを学んで
ひとつの仮説を持つに至った。
それは、民主主義というのは、
自立した個人と表現の自由をベースとした、
社会をつくる非常に高度なゲームのような
ものだということだ。

この高度なゲームの目的は、
たくさんの参加者が最大限に幸せに暮らす
社会をつくる、というもの。
しかし、実は終わりというものはない。
終わりのない創造のプロセスを、
参加者みんなで営むという壮大なゲームなのだ。

本来、すべての人が
世の中の動きに関心を持ち、ルールを理解して
参加するゲームが民主主義だったのだが、
いつの間にか、参加する人が減ってしまった。

まず、難解なルールを理解しようとする人が減った。
そもそも社会に大きな問題があると思っていない、
あるいは、その問題が政治、あるいは民主主義で
解決できると思わない人が増えていったからだ。

かくして、このゲームは、
自分の都合のいいように社会を変えてしまおうとする
小賢しい人たちに利用されるようになった。
ルールを変えられるのも、民主主義というゲームの
ルールのひとつなのだ。実に創造的で、破壊的だ。


一部の人たちに都合がよくなる傾向がどんどん
強くなったゲームには、ますます参加者が減っていった。
そうなると、ルールはどんどん不平等になる。悪循環だ。


そして多くの人が気づいたときには、
生きづらい社会ができあがっていた。
…というのが、今なのではないだろうか。


恐ろしいことに、
もはや日本の政治はほぼ独裁に近い状況にある。
ほんとうに、暗澹とした気持ちになる。


でも、あきらめてはいない。
繰り返しになるが、
民主主義というのは、
終わらない創造のプロセスなのだ。


いままでゲームに参加することを忘れていた人たちが、
暴政とそれに反対するデモをきっかけに、
ようやく目を覚ましつつある。
ゲームに参加しようという人が増えつつある。
ルールが変わったのなら、もういちど、変えようじゃないか。
まだゲームオーバーじゃない。
さあ、ゲームに戻ろう。