夏休み日記(3)シベリア帰還者に聞く、戦争のリアル



島根に帰ったとき、決まって会う人たちが何人かいます。そのうちの一人が、画家の品川始さん


品川さんは第二次世界大戦でシベリアに抑留され、その体験を絵にしてこられました。偶然のご縁で出会ったのですが、私の祖父がシベリアに抑留されていたこともあり、懇意にさせていただいています。


90歳を過ぎても絵への意欲は衰えず、品川さんは老人ホームで暮らしながら絵を描いて暮らしていらっしゃいます。最近は、かつて出版されたシベリア体験をまとめた著書「凍った大地に」の再版を記念する講演をされたそうです。近況を聞いているうちに、話題は安保法案へ。品川さんはおだやかな口調ながら、いまの世の中を心配されていました。


「日本人は戦争の本当の苦しみを知らない」。品川さんは兵隊として中国大陸にいたとき、日本人が現地の人たちに暴虐の限りを尽くしているのを目の当たりにされました。日本人も戦争で酷い目に遭ったけれども、アジアの人たちに与えた苦しみは計り知れない。空襲を受けたり原爆を落とされたりはしたけれども、地上戦は沖縄だけ。敵の兵隊に追われ、虐殺される恐怖を多くの日本人は知らない。被害者として戦争を語ってばかりで、加害者として反省することがないと、日本人の戦争の振り返り方についても怒りに近い疑問をお持ちでした。


「安倍さんは何を考えとるんかなあ」。戦争は絶対にしてはいけない。強くおっしゃる品川さんを前にしても、軍国老人のおじさんは上の空。帰りの車の中でも、「韓国はおかしいですなあ」とつぶやいておりました。


軍国少年だったおじさんにとっては、品川さんは軍隊でお国のために戦った憧れの先輩。慕っているといいってもいい存在なのですが、そんな人の言葉も耳に届きません。年のせいもあると思いますが、自分の意見を正当化する本ばかりを読み続けてきたからというのもあるのではないでしょうか。少年の頃に植え付けられたロマンを、自分に都合のいい情報で固めたものが現実となっているのです。


疑うクセを持ち続けること。歳を重ねても柔軟であり続けること。難しいことですが、絵を語る品川さんの澄んだ目を思い出すと、無理なことでもないような気がします。

夏休み日記(2)いきなり育鵬社


三重から島根へ。



島根では、別荘で過ごします。別荘といっても、山深いところに住むおじさん、おばさんが冬に仮住まいをしたり、親戚が集まるのに使ったりする古い小さな家です。春、夏、秋はほとんど人が入らないので、着いたらまず掃除。窓を開け、布団を干し、掃き掃除、拭き掃除をし、冷蔵庫や食器棚の怪しい物たちを整理します。


バタバタしているところへ、おじさん登場。私たちが来るのを心待ちにしており、また移住してくることを切望しているおじさんです。やさしくてユーモアがあるとてもよい人なのですが、価値観がまるで戦前。なによりも国家と家系を大切にするお年寄りなのです。


「こんにちわぁ〜」とニコニコやってきて、まずは「この本はとてもいいことが書いてありますけぇ、みんなで読みんさい」と、育鵬社の本をゴソッと渡してきます。


おじさんによると、少年の頃に「ボクハ軍人ダイスキヨ」と叩き込まれ、その後陸軍士官学校に入って戦後を迎えているので、国家に尽くすことが人として何よりも大切にすべきことだと信じているそうなのです。


憧れのまま軍隊の学校に入り、実際に戦場に立つことないまま終戦を迎えたおじさん。殺し、殺されるような思いをすることもなかった。また、田舎なので空襲もなく、また飢えに苦しむこともなかった。そのため、戦争がロマンの結晶になったまま年を重ねているのです。そして玉音放送も直接は聞いておらず、戦争が終わったことも人から知らされたそうなので、敗戦のリアリティもないのでしょう。おじさんの頭の中では、まだ戦争は終わっていないようなのです。頭の中は一触即発。いつ中国、韓国、北朝鮮が攻めてくるやも知れん。本気でそう思っているようです。


そういうおじさんなので、安保法制などの動きについては議論の余地なし。何を言ってもニコニコと笑うだけです。なので育鵬社の本も、とりあえず受け取って、別荘の本棚に袋ごと置いておきました。きっとそれでも、来年また同じような本を渡してくるでしょう。

夏休み日記(1)ちょっと寄るつもりが…


仕事でもプライベートでも、何足ものわらじで走り続け、春ごろから心身がおかしくなりはじめました。蕁麻疹が出たり眠りが浅くなったりしながらも、騙し騙し頭と体を動かしていましたが、いよいよ7月ごろ、落ち着きなさと憂鬱さがいっしょになったような重苦しさを感じ、医師のすすめもあって、8月いっぱいは休むことにしました。


東京にいるとついつい動いてしまうので、毎年訪れる島根で、いつもより長く過ごそうということになりました。車の運転に慣れていないので一気に移動するのは疲れるだろうということで、まずは妻の実家がある三重へ。


三重でまず訪れたのは、いつも野菜を送っていただいている美杉町の農家さん。朝10時に直売所を訪れると、早くものんびりモード。野菜は朝早くに来て、ほとんどすぐに売れてしまうそうです。前に来たときは美杉町を舞台にした映画「WOOD JOB」が封切り前ということもあり、みなさん興奮気味だったのですが、今回はその熱も一段落している様子。映画の効果で移住者や林業従事者が増えたかというとそういうこともなく、たまに映画のファンがロケ地巡りに来るくらいだそうです。それでも、「まあ、覚悟がないと来れませんわなぁ〜」と、じいさまたちは朗らかでした。



そのあと、青年海外協力隊で訪れたパプアニューギニアでたくましく生きる人たちに触れ、Iターンで有機農業をはじめたという百姓サブローさん宅へ。卵を売るために飼い始めたというニワトリ小屋でニワトリたちと戯れながらおしゃべりしました。ニワトリのエサは雑穀や糠。仲間の農家さんからいただいたものをブレンドしているそうです。卵をおみやげにいただきましたが、見かけがワイルドな割に味はマイルドで美味しかったです。ワイルドでマイルド。まさにサブローさんのキャラそのまんまです。



三重ではその他に、歴史マニアの息子のリクエストに応えるかたちで伊賀上野城と松坂城跡、そして本居宣長記念館に足を運びました。私自身は歴史にはほとんど興味がなかったのですが、触れてみると面白いものです。歴史に残る人はたいがい「やり過ぎ」な人が多いので、エピソードなんかを見聞きしていると興味がわいてくるんですね。


本居宣長なんて、ほんと名前しか知りませんでした。ちょっと展示を見るだけ、というようなつもりで訪れた本居宣長記念館では、ちょうどワークショップの直前でした。内容は、宣長が17歳のときにつくった地図について学び、自分でも描いてみよう、というもの。時間が3時間と聞いてためらい、その場を去ろうとしたときに、館長がやってきて猛烈に参加を誘われました。「地図の見方が変わりますよ!人生の見方も変わるかも知れませんよ!」なんてテンションで誘われるものですから、まあこれも何かの縁かもしれないと家族みんなで参加することにしました。


最初はやれやれと思っていたのですが、これが面白かった。古今東西のさまざまな地図や、架空の物語の地図などを解説を踏まえて眺めていると、地図というものは、それぞれの時代や国に生きる人たちの世界観を反映したものだと言うことが分かってきます。そして、架空の物語も、地図があることでよりリアリティを持つということも。そんな話を聞いていると、地図そのものが物語性を帯びているような気がしてきて、俄然地図への興味がわいてきます。最近は地図といえばとかくGoogleマップに頼りがちですが、これからは紙の地図と対話をする時間を増やしてみようという気持ちになったのでした。

鳳凰三山

年に一度の日本アルプス登山。今年は週末ごとに天気が悪く、予定が延び延びになっていました。天気予報はかんばしくなかったのですが、みんなの予定を考えるとこれが最後のチャンス!ということで、9/20,21と、鳳凰三山に行ってきました。


スタートは青木鉱泉。ドンドコ沢という道をドンドコ登る。樹林帯の中の坂はとても険しい。でも、いくつもの救いがあります。それは、滝。南精進ヶ滝、鳳凰の滝、白糸滝、五色の滝といったそれぞれに力強く美しい滝。その流れを眺めるたびに、体に力が満ちてくるのです。この先にはどんな眺めが待っているのだろう。そう思うと足取りが弾むのです。

沢が終わると、次はザレ場。登れども登れども砂の壁。いい加減しんどいわと思った頃、槍のような鋭い岩の塊が目に入ってきます。オベリスクです。これが見えると、地蔵岳の山頂も近い。

息を切らしながら山頂に着くと、そこはあの世に片足を突っ込んだような景色。ガスが満ちる砂地に、たくさんのお地蔵さまが並んでいます。これからの山行の無事と天気の回復を祈り手を合わせ、続く観音岳へ。

一旦下ってからの登り返しはキツかった。観音岳を下りたところにある鳳凰山荘で昼食。小屋の人に翌日は天気に恵まれそうだと聞き、弾む心で薬師岳へ。山頂はやはりガスっていたため、達成感を味わったらすぐに薬師岳小屋に向かいました。

着いたのは16時くらいだったので、外は下界だと晩秋の寒さ。防寒着を着込み、プチ宴会と夕食。夕食のメニューは、友だちがつくってくれた豚キムチ丼。辛さと脂っこさが、疲れた体に沁み入りました。


9月とはいえ、3000メートル近い山の夜は冬のように寒い。20年以上使って薄くなった3シーズン用のシュラフでの眠りは浅く、おかしな夢をいくつも見ているうちに朝を迎えていました。朝は5時に起き、すぐ近くの乗越しでご来光を待ちました。前日の天気予報では雨だったのですが、空には星。やがて雲が青くなり、紫に、そしてピンクがオレンジになり、赤いお日様が昇ってきました。小さい心を焼き尽くすような圧倒的に明るく強いご来光は、何度体験しても感動してしまいます。

ご来光のあと、いったん小屋に帰って朝食をとったあと、再び薬師岳へ。今日は眺望バッチリです。富士山、白峰三山の眺めはもちろん、甲府の市街までよく見えました。ずっといたかったけど、帰りの渋滞のことを考えるとのんびりしていられません。中道を通って、ひたすら急な坂を下りました。ザレ場が終わると長い長い樹林帯。眺望もない上に角度が急なので、精神的にも肉体的にもキツい下りでした。

ガクガクの足で林道を歩き、ふりだしの青木鉱泉に到着。すぐに温泉といきたかったのですが、ここは駐車料金が高かったので、温泉も割高かも、ということで、ちょっと足を伸ばして話題の「ほったらかし温泉」に入って帰りました。ほったらかし、確かに開放的で気持ちよかったです。あえて施設などは凝らないという引き算のサービスがウケているんですね。こういうところが流行るといいうことは、みんな過剰なサービスには疲れてるのかも。


泊まりでの登山は年に一度、ということでテンション上がってしまうのですが、年に一度だと体への負担がハンパない。足の疲れは1週間ほどとれませんでした。もういい歳だからね。体と相談しながら、来年も、これからも、登り続けようと思います。

生まれたての子牛のような38歳です。


今日、38歳になりました。


社会人になってからずっと悩み続けているのですが、この1年は特に悩みました。環境や社会の問題に敏感になり、プロボノgreenz.jpでの活動を通して自分なりにできることを続けて8年。自分の信念と広告会社での広告制作という仕事とのギャップに苦しみ、生き方と働き方をなるべく一致させたいと強く思うようになっていました。ひとことで言えば、人生に、自分を取り戻したいと。


今年の3月が、ひとつの節目だと決めていました。いまの会社で15年勤め上げるというのは、ひとつの節目であり、もう、卒業してもいいかな、と思ったのです。どんなかたちで働くのかわからないけど、とりあえず今いる場所を離れてみよう、そこから、広告という仕事を続けるのか、そして、東京に住み続けるのか、それ以前に、どう生きていくかを考え直そうと、ず〜っと頭の中で右往左往していまいた。


その考えが、東京都知事選で変わりました。自分が想像していなかったような投票率と、結果。自分が見ている、いや思い描いている世界と現実が大きく違うことに気づかされました。世の中の多くの人は圧倒的に変化を恐れているか、社会に無関心であることに気づかされました。自分のまわりで小さな変化を起こして、幸せをつくっていくことも大事だけど、それに満足していてはいけないんじゃないかと思わされました。


広告会社のビジネスの相手は、ほとんどが企業です。日本の人たちが大切にしている経済活動を、必死になって動かしている人たちです。その、必死な人たちとともにポジティブな流れをつくっていけば、世の中は着実に変わっていくのではないだろうか。自分の信念と仕事がかけ離れているのであれば、それを一致させるために、仕事を変えていけばいいんだ。それは本当に難しいチャレンジなのかもしれません。バラ色のいばらの道です。でも、いまここにいるという運命に身を任せて、やれるだけやってみようと思っています。


思えば、学生時代に広告会社もコピーも知らず、東京に出るなんて考えてもみなかった私が、何の因果か東京の広告会社でコピーを書いている。20年前の自分からしたら、信じられないことです。不思議なことです。その不思議な波に揺られながら、もがいてみようと思うのです。


この動きを応援してくれる人もいます。反対する人も、反面教師だと思えばサポーターです。普通の広告制作の仕事に加えて新しい道をつくっていくことは、肉体的にも、精神的にも厳しいです。でも、うろうろ悩んでいるだけのときよりも幸せです。か細いですが、ひとつ、道が見えたのですから。


どこまで続いている道なのかわかりませんが、不器用な足取りで歩いていきます。たくさんの人に迷惑をかけたり、お世話になると思います。晴れやかな顔をしていても、実は密かに悩み苦しんでいたりするので、優しく見守っていただければと思います。よろしくお願いします。

今回も熱かった!グリフィス大学R水素ビル視察報告イベント@リトルトーキョー


再生可能エネルギーに取り組む人たちの間で、最近とくに注目が高まっているのが「オフグリッド」という考え方です。オフグリッドとはグリッド、つまり送電線がなく、自立した状態で再生可能エネルギーを使うことを言います。


巨大な送電線網に頼り、足りないときは電力会社から何でつくったのかわからない電気を買わないといけないというあり方は、本当に再生可能と言えるでしょうか。余った再生可能エネルギーを巨大送電線網を通して電力会社に売るビジネスモデルがありますが、電力会社を通して遠いところに住む人から取ったお金で運営するかたちは、本当に地域電力と言えるでしょうか。


フグリッドにより、地域単位で再生可能エネルギーを「つくって、貯めて、使う」ことができるようになれば、効率だけではなく、セキュリティも向上します。先日行われたR水素ネットワークのイベントは、そんなオフグリッドの最先端事例、R水素によるオフグリッドを実現したグリフィス大学のビルの視察報告でした。

再生可能エネルギーだけで自立するため、トコトン省エネを考えた構造になっていること、大学の施設ということで電源が落ちるリスクを避けるためバッテリーも使っていること、将来的にはバッテリーの比率を減らし、水素の割合を増やしていく計画であることなど、たくさんの写真を交えて詳しくプレゼンしてくれました。


また、イギリスの水素政策の話にも勇気づけられました。低炭素のエネルギーにシフトしていく計画の中に水素が組み入れられていて、化石燃料由来の水素から水の電気分解による水素に移行することで、CO2フリーのエネルギー社会を実現していくビジョンがヨーロッパ全体で進んでいるような印象を受けました。


プレゼンの最初にプレゼンテーターのリナちゃんが「Disruption」という概念について話をしてくれました。広告の世界でも聞く言葉です。既存のしくみを全く変えてしまう破壊的な創造、発明、という意味ですね。R水素はエネルギーにおけるDisruptionであり、これまでのエネルギーのかたちにとらわれてると、なかなか理解しずらいところがあります。


ましてやこれまで具体的な形がなく、リアルに想像してもらうことが難しかったR水素。それが具体的な事例となってあらわれたことは、とてもうれしいことでした。

グリフィス大学の副総長であるネドさんのコメントです。


オーストラリアは豊富な太陽光とグリッドから遠く離れた町が多数ある。この国のエネルギー需要の状況を考えた結果、水素エネルギーにたどり着いた。水素の魅力は太陽のエネルギー(あるいはその他の再生可能エネルギー)を大量に貯蔵できるところだ。この魅力を、水素貯蔵システムを導入した大規模な建物で世界に示すことにした。それが、グリフィス大学のサー・サミュエル・グリフィス・センターのプロジェクトである。水素技術が抱える大きな問題は、計画書を現実化することだ。その旅の一歩に貢献した形である。


R水素の定例イベントは、これで4回目。すべてに出ていただいている方にとっては、いままで知ったことの実例とい うことで納得を深める機会になったかと思います。でも、そういう人はほとんどいないんですね。初めてR水素の話を聞きにきたという人はかなり戸惑っている印象を受けました。質疑応答は盛り上がり、次回への課題もたくさんいただきました。


毎回必ずされる質問があります。
「R水素社会にするために、私たちにできることは何ですか?」


マーケットができれば、R水素システムは効率が上がり、コストが下がっていきます。そのためには、私たちひとりひとりが有権者として、歪んだエネルギー市場をフェアにするよう、補助金などの流れを変えていくこと(化石燃料業界への補助金はなんと年間2000兆円!)。そして、消費者としてR水素システムが欲しいという声をあげ、ニーズを作り出していくこと。そのためにはまず、一人でも多くの人に知ってもらう必要があります。そのために「伝えるツール」を活用していただければと思います。


R水素ネットワークの活動は、すべてプロボノ、ボランティアで成り立っています。ソーシャルメディアの運用やファンドレイジング、事業立案、エンジニアリングなど、さまざまな分野の人の協力が必要です。ホント、仲間を待っています。


いまR水素ネットワークが実現したいのは、国内で一軒のモデルハウスをつくること。百聞は一見にしかずといいますが、誰でも気軽に訪ねられるカフェのようなものをつくりたいと思っています。オーストラリアまで見に行くのは大変ですからね(笑)。


定例イベントは、2回に1回は基礎的な内容にした方がいいのかも知れない。代表のハルさんも、言いたいことがあるかも知れない、ということで、次回は2時間まるごと江原春義で行こうかなあと思ってます。次回もたくさんの人の出会いを期待しています。

先生、まだ卒業には、ほど遠い思いです


高校のときの恩師が亡くなったと連絡があった。
先生の名前でググったら、いまの仕事にとって
糧となるような言葉を見つけた。


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人間にとっての現実は、
すべてコトバという
不可思議なものによって成り立っています。


だから、コトバに対する愛情は、
この世と自身の生への愛情に他ならないのです。


人間力は、このコトバに対する
愛情の深さに左右されるものだと、
僕は信じます。


さあ、一緒にコトバの迷宮に学びませんか。


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先生、私はコトバを仕事にしていますが、
その迷宮の奥深さに、日々頭を悩ませています。
ゆっくり、お話したかったです。


先生から満点をいただけるコトバを書けるよう、
迷いながら、がんばっていこうと思います。


謹んで、ご冥福をお祈りします。