「地震が起きてすぐ、大阪の気象台から出された津波予測は2、3メートルだった」。南相馬で聞いたこと、見たこと(2)



環境NPOの事務所をあとにし、向かったのは宿泊先となる農家民宿翠の里」。着いてすぐに迎えてくれたのは、柴犬のハナちゃん。続いて、小倉さんご夫婦があたたかく古民家に案内してくれました。古民家といっても、まったく古びた感じはしません。お客さんとしてここに来たという画家の方が描いたふすま絵があったり、かわいい小物が飾られたりしていて、いろいろな個性をもった人たちが集まる、いきいきとした空気に満ちていました。



東日本大震災でも津波の被害に遭わず、お皿ひとつ壊れることのなかった翠の里は、震災後、たくさんの被災者やボランティアの人たちが寝泊まりする拠点になりました。震災から2年たっ今も、第二の故郷として再び訪れる人が絶えないのは、小倉さんご夫婦の愛のこもったおもてなしと人柄によるところが大きいのではないでしょうか。


荷物を降ろしてお茶をいただいたあと、今も津波の爪痕が残る海岸に案内してもらいました。海岸への道のまわりには、かつての田んぼが草むらとなって広がっています。小倉さんのお父さんは、淡々と、あの日起こったことを話してくれます。


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この辺の田んぼは津波をかぶったけど、海水はそれほど問題じゃなかった。問題は原発南相馬の米というだけで買い控えされるし、ほとんどの田んぼはやめてしまった。



地震が起きてすぐ、大阪の気象台から出された津波予測は2、3メートルだった。それで、海沿いにいた人を助けに行こうとか、様子を見に行こうとかで、海の方に行ってしまった人がたくさんいた。実際に来た津波の高さは20メートルは超えていたと思う。気づいたときにはもう遅いよね。なんで地震が起こったところと遠い大阪の気象台が予想を発表したんだろうって思うけど、国が東と西で平等に仕事を分けようとしてたんじゃないかなあ。



リタイア後にIターンしてきて、海が見える高台に住みたいと言って家を建てて住んでいたご夫婦は、たまたま娘さんが来ているときに津波に遭った。あっという間に家ごと流されてしまったようで気の毒だった。地震が起きた後、みんな津波を避けるために野球場に避難した。でもそこにも津波が来て、ほとんどの人が池に流されて死んでしまった。46人くらいが避難して、生き残ったのは6人くらいだったと思う。男か女かわからない死体がいっぱいで、気がおかしくなってしまった消防の人もいた。



大きなテトラポッドが内陸まできてるでしょう。こんなテトラポッド津波で流されてくるんだ。こんなのがぶつかったら、たまらないよね。それなのに、また新しいテトラポッドをつくってもってきている。なんのためにやってるんだろうと思うような工事がずっと続いている。


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草むらになってしまった田畑と、海岸を埋め尽くそうとするコンクリート工事の残酷なコントラスト。自然への畏れや人の幸せを置き去りにした復興の現場は、ひどく寒々しく見えました。