3・11以後に哲学は何を語れるか


友人の山本達也さんのお誘いで、彼が勤める清泉女子大学で開かれていた「地球市民学先攻公開合同セミナー 3・11以後に哲学は何を語れるか」に行ってきました。話題提供者は、清泉女子大学キリスト教文化研究所准教授の原田雅樹さんです。


哲学なんてかじったこともない私ですが、とても勉強になりました。というか、面白かった。頭が興奮でシビれているうちに、その内容をおさらいしておこうと思います。あくまでも、私が理解できる範囲で、ですが。


いまの社会は、近代合理性に基づく経済的思考に染まっています。政治も科学も、文化も、すべてが経済化。原発や気候変動といった危機に対するスタンスも、確率論、リスク論からの「予防原則」が主流になっています。でも、近代合理性の象徴である科学技術の営みには、大きな欠陥があります。


〜ヨハン・ヨナス「責任という原理」


科学技術の営みは、そのつどの近未来の目標を実現するために発展を生み出すが、こうした発展には、一人歩きし始める傾向、すなわち固有の強制力を持つ力学、自律的に働く慣性を獲得するという傾向がある。そのために、科学技術による発展は不可逆であるばかりか、前へ前へと駆り立てるものとなり、行為者の意志と計画を飛び越してしまう。技術的発展は望ましくない過程を「固持する」傾向を強く持っており、そこから離れることはますます難しくなる。


限りなく合理性を求め続ける科学や経済は、人間が壊れても、発展することをやめません。いま私たちを悩ませている問題でいえば、人間の活動との因果関係がわかったころには取り返しがつかない状況になっているであろう地球温暖化による気候変動。そして、ひとたび事故を起こせば惨事を引き起こし、また使い終わった燃料が核爆弾の原料になる原発があります。


〜高木仁三郎による核管理社会


核に限らず、人間の生み出した科学技術の力が、人間自身と自然環境に対して、このうえなく破壊的・抑圧的に振舞うようになったこの時代においては、平和という言葉には、おそらく従来よりはるかに積極的な、人間が生きることの尊厳を包み込むような意味が与えられなくてはならないだろう。


そしてその意味において、核の商業利用(=原子力)は、すでにその技術のあり方において、けっして「平和的」ではありえない。核の商業利用のもつ商品価値は、まさに核エネルギーの自然緒力に対する支配的な強さによるものであり、その支配は人間という自然にも貫徹するからである。巨大な資本投資と技術革新によって、その核をも人間の自由に操作しうるものとしたいと期待した人たちの願望は、見果てぬ夢となってしまった。核の操作は、人間の管理強化によってのみ進行しているのである。


経済という狂った歯車に殺される前に、何ができるのでしょうか。それはズバリ、最悪のシナリオを想定して、行動すること。世界が近代合理性に支配される前、人びとを律していたのは「預言」でした。危機を預言する人がいて、それを避けるために人は自らの行動にブレーキをかけていたのです。


予測できない危機の足音が聞こえてきている今、私たちに求められているのは、破局が必ず起こると想定して推論を行うこと。破局後の時間に自己を投げ入れ、そこで起こりうることをふりかえって考えること。ハンナ・ヨナスはそれを、ネガティブなことではなく、「おそれに基づく発見術」だといいます。


破局を予見することで見える、新しい道。ジャン=ピエール・デュピュイは「ありえないことが現実になるとき」、ジャン=リュック・ナンシーは「フクシマの後でー破局・技術・民主主義」で、絶望からの希望を思索しているそうだ。


いま必要なのは、近代合理性が破壊してしまった神話や倫理観を取り戻すことなのかも知れない。この時代に神話とかが有効でなないとすれば、それはカルチャー、ということになるだろうか。損得ではない、数字で測れない人間らしい価値観に基づくカルチャー。いわゆる「懐かしい未来」ではない、時代を超えて、しかもみんなが輪に入りたくなるようなカルチャーをつくっていきたい。


今日は37回目の誕生日だった。この気づきは、また自分を新しくしてくれる、とてつもないプレゼントだ。破局をリアルに想像しよう。そして、おそれを持って、光を探しに行こう。